泡沫記

備忘録あるいは自分の背骨

思い出すことは自分の再生産に他ならない

20代に映画を見まくってマイ映画ベスト10をつくって悦に入ってた時期があったけれど、年食って映画を観るスタミナが衰え、今ではほとんど観なくなってしまった。もう何年も前からマイベスト10は更新されておらず。今日愕然としたのはあれだけ好きだった映画が思い出せなくなっているという事実。自分は何を好きだったのか、それすら記憶から薄れつつある。本当に若年性アルツハイマーじゃなかろうかと不安になるが、思い出したりとか人に話したりとかあまりしないせいだと自分に言い聞かせている。好きなものは好きだと口にしないと、しかも言い続けないとそれすら消えてしまうのだとぞっとした。あまりにも自分が立っている場所が脆く不安定なのだと知って。

自分が好きだったモノは自分を形作る背骨みたいなもので、それが消えゆくのは何だか自分がなくなっていくようで心細い。だから「あぁオレってこういう人間だったな」と改めて記録を残していきたいと思う。自分が生きていた証を残したい、わけではない。そんなアリバイを残したいという欲求は薄い。でも書き残しとこうという欲が湧いたのは、何だろう、今を楽しみたいのだ。自分が立っている場所をハッキリさせて、ちゃんと足で立って、これから経験することを楽しみたい、からか?

書き連ねていけばどんどん思い出していくこともあるだろう。思い出したことは前とは違っているのかもしれない。人間は勝手なもので過去を自分が都合の良いように改ざんするらしい。なんでそんなことをするのか、つらつら考えるに、過去は今の自分に繋がっていて、今の自分を何とかしたいから過去も変えていくんだろう。そう思うと過去の改ざんもそう悪いものでもない気がしてくる。恥多い後悔だらけの自分の生きてきた道程がちょっとだけマシに見えるから。自分をつくりなおす、思い出すってそんな感じだ。

誰に書くわけでもない、誰かに読んで欲しいわけでもないけれど、暇つぶしに読んでもらって自分が好きなものを誰かに好きになってもらえたら、嬉しいなと思う。