Bubbles in a pool

よどみに浮かぶうたかた

ぼやぼやしてるとおいてかれちまう

あっという間に10日が過ぎる。ひとまずの形をつけて次進む。
ロング・グッドバイは主人公フィリップ・マーロウが語り手でストーリーが進む。彼の視点から事件を体験し行動を共にしていくので、当然自分と主人公が一体となったような錯覚が起こりやすいハズなのだが・・・彼にシンクロしたくてもシンクロできない違和感がある。地の文(つまり彼の語り)と、台詞やアクションとの間にあるギャップ。なんだか行動を共にしていたと思ったらふっと予測を裏切られて離れてしまう、かと思えば再びよりそい、また離れ、という感覚。何だろう、これは、という違和感があった。
村上春樹のあとがきから引用

しかし、そのような彼の所見なり対応なりは、彼の自我意識の実相とは、必ずしも直結していないように我々の目には映る。

多くの小説家は意図的にあるいは無意識的に自己意識について語ろうとする。あるいは様々な手法を用いて自己意識と外界の関わり方を描こうとする。

続けて春樹は分析する。チャンドラーは違うと。自己意識の代わりに「仮説」を置き、その「仮説」によって「切り取られていく世界の光景」を描いたのではないかと。じゃあマーロウの仮説ってどんなものなんだろうと考えてみたが・・・わかんねぃ。ただ、その自我の代わりに「仮説」を置く方法が、ともすれば陰鬱と閉じこもった自分の脳内世界から外へと切り開く有効な道具になるなら面白いかもと思ったわけだ。