Bubbles in a pool

よどみに浮かぶうたかた

伝えるという行為

tatsとドライブ中に、誰かのために作品を創ったことがことがあるかという話になった。「君のために歌をつくったんだ」と歌ならばありがち。が、小説や映画はどうなんだ?「だれそれに捧ぐ」と冒頭に書かれていたり、エンドロールで流れたりするのを見たことはある。しかしそれはその人のために作ったというよりも「こんな作品できましたが、あなたなしではやっていけんかったとです」と労いの意味が強いように思われる。先ほどの歌の場合にしても、その人に想いを伝えるというよりもどうにもならない自分の気持ちをなんとかするためにつくったような。ならばとどのつまり創造とは自己満足にすぎず、処理にすぎず、言わばウンコみたいなものなのか。否定したい気もするし、否定できない気もする。誰かに伝えたい、だから作品を作るということは意外とないのか?
なんでこんなことにこだわるのかと言えば、傑作と駄作の違いについてよく考えていたから。自慰的作品とか見かけるたび、お前気持ちいいかもしれないけれど、オレは気持ちよくないよと言いたくなる。自己満足のためだけなら、誰の目にも触れさせず自分だけが楽しめよと。セックスなのか相手の体使ったオナニーなのか。えらくまた話が飛ぶな、まぁいいや。そこにコミュニケーションはありますか?他者は存在してますか?愛はありますか?海は蒼いですか?山は死にますか?・・・・
いやいや。××のためにと目的を考えること自体、西洋的二言論に捕われた言説かもしれず。自分のなかにある情動につき動かされやむにやまれぬ想いで作ったモノこそ貴いのかもしれん。・・・まとまらず。